没骨法(もっこつほう)とは、輪郭を用いずに絵を描く東洋絵画の技法です。10世紀から12世紀にかけて中国に興った北宋という王朝の画家、徐崇嗣を象徴する技法として評価されたのが初出とされています。当時の宮廷の主流であった、輪郭線を用いる鈎勒法とは対照的であり、新しい描き方だと評価されました。六朝や唐など、過去の王朝時代に作られた作品を模倣する形の絵画が多く制作されたようです。
没骨法は花鳥画に多く用いられ、常州花鳥画をはじめとした中国各地の流派へと浸透していきました。17世紀の明王朝の末以降に、水墨以外の彩色を用いた没骨法が登場。明を継いで清王朝が興ると、文人画家であった惲寿平が没骨の技法を駆使して、花鳥画を制作します。対象物そのものを見たままに書き写す自然主義的な画風が特徴で、日本の絵画にも影響を与えました。
惲寿平の作品は、江戸時代に日本にもたらされます。特に江戸後期に活躍した渡辺崋山や椿椿山などの画家は没骨法を研究し、自身の創作活動にも大きく反映させました。時代を下ると江戸時代初期の俵屋宗達や尾形光琳の琳派、円山・四条派など、15世紀前半の日本の絵画作品には、没骨法に類する描法を用いたものが見られます。
明治時代の日本で確立された「朦朧体」も没骨法の一種とされ、岡倉天心や横山大観は輪郭線を用いず画面内の空気や光を表現しようとしました。しかし伝統的な東洋画を否定した曖昧な技法だと批判され、揶揄を込めて朦朧体の名前が付けられたといいます。その後も研究を重ね、最終的には新しい画風であると評価されるようになりました。