ウィーン分離派

ウィーン分離派とは、帝政オーストリアの画家であるグスタフ・クリムトを中心に結成した芸術家グループです。ウィーン分離派に所属していた芸術家のジャンルは、絵画や彫刻、建築など多岐にわたります。独自の展示会場を保有しており、1898年からクリムトが脱退する1905年までに、23回の展覧会を開催しました。

クリムトがウィーン分離派を結成した背景には、当時のウィーンの美術界の閉鎖的な風潮があります。19世紀後半のヨーロッパではフランスを中心に新たな芸術が生まれ、芸術家はそれぞれの道を歩んでいきました。一方ウィーンでは古くからの伝統を重んじ、神話などを主題に決められた技法で描かれた作品が評価され続けていました。

当初のクリムトはウィーンの風潮に従って作品を描き、26歳で皇帝から勲章を受章しましたが、その後は自分らしい表現を求めるようになります。1894年に政府からの依頼で制作したウィーン大学の天井画は大論争を起こし、最終的には独立してウィーン分離派を結成することに。ウィーン分離派には、クリムトだけでなくウィーン美術界の保守性に不満を持つ若い芸術家も所属していました。

クリムトは金をふんだんに使った『ユディトⅠ』を描き、建築家のオットー・ワーグナーはマジョリカハウスやカールスプラッツ駅、同じく建築家のヨーゼフ・ホフマンはホーエ・ヴァルテ住宅街をデザインしました。ウィーン分離派の活動は、フランスのアール・ヌーヴォーのような後世の芸術活動にも影響を与えることになります。