有田焼

有田焼とは、佐賀県有田町とその周辺地域で作られている磁器のことです。「有田焼」という名称を使うようになったのは明治時代以降で、それ以前は積み出しを伊万里から行っていたことから、「伊万里焼」とも呼ばれていました。昭和52年(1977)には国の重要無形文化財に指定されました。

有田焼は16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加していた肥前(現在の佐賀県と長崎県)の領主・鍋島氏が、朝鮮から連れ帰った陶工・李参平(日本名:金ヶ江三兵衛)らに磁器を作らせたのが始まりです。李参平は17世紀初頭に有田へと移住し、磁器の原材料である陶石を発見したと伝わっています。その後急速な発展による燃料用薪の乱伐が問題となり、1637年に鍋島氏は、窯場を有田の13箇所にまで減らしました。

時代によって作風が変化するのが特徴で、1610年代~1650年にかけて作られた「初期伊万里」は、白い素地の上に藍青色に発色する釉薬で絵を描く染付の技法を使用していました。複数の色を使って彩色するようになったのは、1640年代以降です。1640年代~1660年代ごろの色絵は「初期色絵様式」と呼ばれており、赤色や緑色などの5色を使う「五彩手」、青・緑・紫・黄を多用した「青手」などが発達しました。

17世紀後半になると、乳白色の素地に絵画のような彩色を施す「柿右衛門様式」が流行。余白を活かしているのが特徴で、ヨーロッパへも数多く輸出されました。江戸時代の元禄年間(1688〜1704)には「金襴手様式」が登場します。作風は赤や金の絵の具をふんだんに使い、花文様を器の全面に配しており、とても華やかです。装飾効果が高く、海外には現在も大型の壺が残っています。